西安(シーアン)は中国陝西省に位置する歴史都市で、かつて「長安」と呼ばれ、13の王朝が都を置いた中国四大古都の一つです。シルクロードの起点としても知られ、歴史・文化・グルメが融合した魅力的な観光地です。
兵馬俑博物館
これは西安にきたら絶対におすすめです。大きな屋外の建物の中に、今にも甦りそうな兵士の像が無数にならんでいます。現在も発掘や修復が行われている様子をみることができます。なんとも迫力と圧巻なものです。
兵馬俑博物館(へいばようはくぶつかん)は、中国陝西省西安市の郊外に位置し、秦の始皇帝の陵墓に付随する副葬品として発見された兵馬俑(兵士や馬の陶製像)を展示する世界的に有名な博物館です。1974年、地元の農民が井戸を掘っていた際に偶然発見され、その後の発掘調査で数千体に及ぶ兵馬俑が出土しました。
兵馬俑は、紀元前3世紀に秦の始皇帝が自らの死後の世界を守るために作らせたとされ、実物大(高さ約180〜200cm)の兵士や馬、戦車などが精巧に再現されています。兵士たちはそれぞれ異なる顔立ちや髪型、服装をしており、当時の軍隊の階級や装備の違いを反映しています。
博物館は主に3つの展示坑(第1〜第3坑)から構成されており、第1坑が最も大きく、約6,000体の兵士と馬が整然と並ぶ壮観な光景が広がります。第2・第3坑では、弓兵や戦車部隊、指揮官など、より専門的な部隊編成が見られます。
兵馬俑は1987年にユネスコの世界遺産に登録され、現在では中国を代表する観光名所の一つです。その歴史的価値と芸術性の高さから、「世界第八の不思議」とも称され、多くの観光客や研究者を魅了し続けています。

大雁塔
大雁塔(だいがんとう)は、中国陝西省西安市の雁塔区にある仏教建築で、唐代の高僧・玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏教経典や仏像を保存するため、652年に建立されました。大慈恩寺の境内に位置し、当初は5層構造でしたが、幾度かの改修を経て現在は7層、高さ約64メートルの煉瓦造りの楼閣式塔となっています 。
この塔は、中国最古かつ最大級の唐代建築の一つであり、仏教文化がインドから中国へ伝播し、中国文化と融合した象徴的な存在です。塔の名前の由来には諸説あり、一説には旅の途中で玄奘が雁に命を救われたことへの感謝から名付けられたとも言われています 。
塔内には仏舎利や経典が納められており、第一層には褚遂良の筆による「大唐三蔵聖教序」などの石碑が残されています。また、唐代の詩人・杜甫や李商隠がこの塔を詠んだ詩も多く、文化的価値も非常に高いです 。
2014年には「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されました。現在も塔の最上層まで登ることができ、西安の街並みを一望できます。夜にはライトアップされ、幻想的な雰囲気が観光客を魅了します

華清宮
華清宮(かせいきゅう)は、中国陝西省西安市の郊外、驪山(りざん)の麓に位置する歴史的な温泉離宮です。西周時代から湯治地として知られ、唐代には皇帝・玄宗と楊貴妃のロマンスの舞台として名を馳せました 。唐玄宗はこの地に壮麗な離宮を築き、政務と保養を兼ねて滞在。その際、楊貴妃が入浴したとされる「貴妃湯」や「芙蓉湯」などの温泉施設が整備されました 。
華清宮は唐代様式の建築と美しい庭園が段階的に広がり、まるで歴史ドラマの世界に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出しています。敷地内には九龍湖や芙蓉湖などの景勝地があり、湖面に映る建物や山々の景色が訪れる人々を魅了します 。
また、華清宮は1936年の「西安事件」の舞台としても知られています。蒋介石が張学良らに監禁され、国共合作を迫られた歴史的な出来事がこの地で起こりました 。


刀削麺
刀削麺(とうしょうめん)は、中国山西省発祥の伝統的な麺料理で、独特の製法と食感が特徴です。名前の通り、麺は包丁で「削る」ようにして作られます。生地を棒状に整え、鍋の上で職人が包丁を使ってリズミカルに削り落とし、直接沸騰した湯に落として茹でるという技術が必要な調理法です。
削られた麺は、中央がやや厚く、両端が薄くなる形状で、モチモチとした食感と滑らかな口当たりが魅力です。麺の太さや長さは職人の技術によって異なり、見ているだけでも楽しめるパフォーマンス性があります。
刀削麺のスープは地域や店によって異なりますが、一般的には牛肉や羊肉をベースにした濃厚なスープが多く、唐辛子や花椒(ホアジャオ)などの香辛料を効かせた辛口の味付けが人気です。具材には肉のほか、青菜、豆腐、もやしなどが使われ、ボリュームも満点です。

補足
兵馬俑(へいばよう)は、中国・秦の始皇帝の陵墓に副葬された、兵士や馬をかたどった陶製の像です。1974年に陝西省西安市臨潼区で井戸を掘っていた住民によって偶然発見され、世界的に有名な考古学的遺産となりました 。
主な特徴
- 目的:死後の世界で始皇帝を守るために作られたとされる。
- 規模:現在までに約8,000体以上の兵馬俑が発掘されており、東西200メートル以上、南北60メートル以上の広大な範囲にわたって配置されています。
- 種類: • 歩兵俑・騎兵俑・将軍俑など軍人を模したもの • 文官俑・楽士俑・百戯俑(力士俑)など、軍人以外の俑も存在
- 造形:一体一体が異なる顔立ちをしており、かつては彩色されていたことも判明しています。
- 技術:当時の高度な陶芸技術と芸術性が反映されており、秦代の軍隊編成や服装、武器などの貴重な資料となっています。
歴史的背景
兵馬俑は、春秋戦国時代に殉葬の習慣が廃れた後、死者の霊魂の生活を支えるために作られた「俑(よう)」の一種です。秦の始皇帝陵において、その造形と規模は極限に達し、後の漢代以降も兵馬俑は作られましたが、より小型で簡素なものとなりました 。
兵馬俑の発掘場所は、中国の陝西省西安市臨潼区にある「秦始皇帝陵兵馬俑坑」です 。
詳細情報
- 座標:北緯34度23分5.7秒、東経109度16分23.1秒
- 発見の経緯:1974年3月29日、臨潼県西揚村の農民が井戸を掘っていた際に偶然発見しました 。
- 兵馬俑坑の位置:秦始皇帝陵の東約1.5kmの地点に位置しています 。
- 規模:1号坑、2号坑、3号坑の3つの主要な坑があり、総面積は約2万平方メートル以上。約8,000体の兵士や馬の像が発掘されています 。
この場所は現在、世界遺産に登録されており、博物館として一般公開されています。
兵馬俑の発見は、まさに偶然の出来事から始まりました。
発見の経緯
1974年3月、中国陝西省西安市臨潼区の西揚村では、干ばつに悩まされていた村人たちが井戸を掘る作業をしていました。その中の一人、楊志発(ヤン・ジーファ)さんが鍬を振るっていたところ、硬い物体に当たったのです 1。
最初は古い壺か何かの陶器だと思われましたが、掘り進めると等身大の粘土製の人形の頭部や胴体、武具らしきものが次々と出てきました。これが後に「兵馬俑」と呼ばれる像であることが判明します 。
発見後の展開
- 村人たちは、掘り出した像をリヤカー3台に積み込み、臨潼県博物館へ運搬しました。
- 博物館の館長は1台につき10元(当時の農村では1年分の家賃に相当)を支払い、村人たちは満足して帰ったそうです 。
- その後、新華社の記者・藺安穏がこの発見の重要性に気づき、記事を執筆。これが中国共産党の指導部の目に留まり、国家文物局が保護を命じました 。
- 同年7月、考古学者の袁仲一を隊長とする発掘隊が編成され、正式な発掘が開始されました 。
発掘の成果
- 最初に発見されたのは兵馬俑一号坑で、東西200メートル以上、南北60メートル以上の広さに約6,000体の俑が並んでいました。
- 続いて1976年には二号坑・三号坑も発見され、兵馬俑の存在は世界中に知られることとなりました 。
この発見は「20世紀最大の考古学的発見」とも称され、兵馬俑は現在では世界遺産に登録され、中国を代表する観光・文化遺産となっています。
兵馬俑の発見者である楊志発(ヤン・ジーファ)さんのその後の人生は、まさに「歴史を変えた農民」として特筆すべきものです。
発見後の人生の変化
- 1974年の発見当時、楊さんは41歳の農民で、干ばつに苦しむ村で井戸を掘っていた最中に兵馬俑の頭部を掘り当てました 。
- 発見した陶片をリヤカー3台に積み、臨潼県博物館へ運搬。館長から30元(当時の農村では1年分の賃金に相当)を受け取りました 。
- その後、兵馬俑の発見が国家的な考古学事業となり、楊さんは兵馬俑博物館の名誉館長に任命されました 。
名誉館長としての活動
- 楊さんは字の読み書きができなかったため、サインを書く練習を何ヶ月も重ね、観光客に自らサインをするようになりました 。
- 月給は8000元(約12万円)に達し、博物館での活動を通じて生計を立てました 。
- 1998年にはアメリカのクリントン大統領一家と面会するなど、世界の要人とも交流する機会を得ました 。
晩年と哲学的な姿勢
- 楊さんは兵馬俑の発見によって大金持ちにはなりませんでしたが、「自分はただの農民に過ぎない」と語り、社会の不公平に対して怒ることは無意味だと受け入れていました 。
- 彼の発見は、兵馬俑が「世界8番目の不思議」と称されるほどの文化遺産となるきっかけを作りました 。
楊志発さんの人生は、偶然の発見が世界的な文化遺産につながり、名もなき農民が歴史に名を刻むという、まさにドラマのような物語です。