自分観

自分観

人には自分というのを守ろうとする想いがあります。その自分というものは一体何であろうか、守ろう必死で、守ろうとしている自分というもの。この自分とは一体何であろうか。この自分という概念の捉え方を自分観と言います。自分の捉え方に対する考え方これはいろいろあります。

一つ目が、身体を自分と捉えることです。ほとんどの人はこれではないかと思います。この身体こそが自分そういう捉え方をします。左脳の方向定位連合野という部分があります。ここが体の境界線を感じさせることになります。よってこの方向定位連合野が機能しなくなると自分の体がどこからどこまでかわからなくなるのです。

どこまでが自分の体でどこまでが自分の体ではないというこの区別がつかなくなります。つまり左脳が機能しているから自分の体の境界を認識することができるわけです。次に,思考、感情、記憶の複合体を自分と捉えます。つまりこの思考、感情、記憶この複合体のことを意識と言ったりもします。意識というのを、もう少し細かく見ていくと思考、感情、記憶の複合体、これを自分と捉えるという考え方です。左脳の言語中枢というところがあります。脳内での言葉による思考を生み出す。自我をもたらします。もし左脳が機能しなくなり言葉というものが使えなくなったら思考をするということが難しくなってきます。言葉があるからこそ思考をすることができるのです。そしてその思考を再現することができるのです。

結局これらの捉え方というのは左脳によって生み出されているということになります。

そして自分は左脳がもたらす錯覚であるというふうに捉えることもできます結局、左脳が機能して自分という感覚をもたらしているだという捉え方です。つまり左脳による錯覚物であります。これが自分という捉え方です。左脳が止まると自分という自分がいなくなるのです。

この点においては仏教と一致しています。仏教というのは脳科学、心理学の膨大なる体系になります。

宗教とある前に脳科学と心理学それがたまたま宗教になっています。そういうふうにこの仏教を現代の脳科学と通じるところがものすごくあります。仏教では主な苦しみの根源は、我癡、我見、我愛などの自分は世界と分類している分離して存在しているという錯覚によるものとしエゴを錯覚と捉えています。

仏教はインドで作られたものでありインド人は数学の能力がものすごく高いですそして数学の能力が高いから完璧を求めますこの仏教という人間の心に関して完璧なる体系を実現しようというところで作られているものです。

ところが人間の心は複雑であります。それを完璧に体系化していくという作られているものですから膨大になってしまいます。そういうふうな緻密に人間の心を観察して分析してできている学問であります。その仏教では苦しみの根源は我癡、我見、我愛などの自分は世界と分離して存在しているという錯覚によるものです。エゴを錯覚と捉えます。この錯覚により自他を区別し自分という、この錯覚に執着するほど、怒り、不安、緊張、嫉妬、劣等感などが生じやすくなります。これらの感情に苦しむ時、苦しむ時はそもそもその原因は分別なのです。なんでこんな感情に苦しめられるのか。それは分別から来ているのです。分別つまり自分と他者とか良いとか悪いとかこういう分別をするところから苦しみが生まれるということです。

この区別、分別がネガティブな感情が生じさせているわけです。これがなくなればとにかく幸せでたまらないのです。今この瞬間がとにかく幸せだと。体の全細胞が喜んでいると。ただただ生きているというだけで、それだけで十分幸せなんだと、そういうふうな状況になるのです。左脳が止まるとそのような状況になるのです。ところが左脳が機能しているからこんな感情が出てきます。その感情が自分を苦しめるところです。ですからこれらの感情に苦しむときはこの区別というのをなくしてしまうと、自分への執着が自分を苦しめています。もうどう思われても構わないと、執着を手放すそうするとこれらの感情も和らいでいきます。また左脳による自他の区別が苦しみをもたらします。自他の区別は錯覚。相手も自分と考えてみます。左脳が止まれば、相手も自分もないわけです。みんな自分なわけです。ところが左脳が機能すると相手は相手、自分は自分で区別が始まります。この区別からいろんなネガティブな感情が生じてくるわけです。だったら区別を一旦やめてみるということです。相手も自分だと、こう捉えてみることです。

この考え方はなかなか難しいかもしれないですが、相手も自分だと捉えると。けれども、この世界で自分が経験していることはもう自分だと、自分の世界と。こんな風に捉えてみてください。相手も自分だという風に言ってみるとです。

現実世界にあると。感覚に陥るわけです。だからこそこういう感情が出てくるわけです。エゴが一生懸命守ろうとする自分がいます。この自分とはいったい何だろうか。それは脳科学で言うと左脳がもたらす感覚であり、仏教で言うと自分は世界で分類して存在しているという錯覚なわけです。これが自分というものの正体であり、脳科学や、仏教で言っています。そういった観点から捉えると、方法が一緒のことを言っているわけです。そういう区別をするのは感覚あるいは錯覚であるのが、自分というわけです。人が一生懸命守ろうとしているもの、これは実は錯覚であり自分ではないということです。これが本来の自分観という考えです。

例えば、部下が生意気だと、部下がミスをしたと、そして腹が立ってしまったと、その時に、そうは言っても、部下も自分だし、こんな風に捉えてみると、感情の生じ方が,変わってきます。自分と相手を区別すればするほど、感情というのは生じやすくなります。そして相手のせいにすればするほど、ネガティブな感情というのは生じやすくなります。部下が悪い、相手が悪いと思うと、部下に対する怒りが湧いてきます。

けれども、部下だけが悪いんじゃないよね。自分の伝え方が悪かったかもしれない。自分が普段指導して仕方が良くなかったのかもしれない。そんな風に思うと怒りというのは意外と湧かなくなってきます。相手が悪いと思うから怒りが湧く。不満が湧く。そういうところが湧いてきます。他責にすると、感情がすごく生じやすくなります。

そういったところで、相手も自分もないと。部下も自分だと。こう捉えてみると、感情というのはすごく収まりやすくなります。相手も自分という考え方を持ってみることも大事です。

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